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LAUNDRY ROOM

LAUNDRY ROOM

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§[闘病記]癌との闘い
  ▼1.闘い終えて春
  ▼2.三年前の暑い夏
  ▼3.N病院との出逢い
  ▼4.産婦人科への迷い
  ▼5.~8 (飛び先に目次あります)
  ▼9.~10 (飛び先に目次あります)
(未)§[マウスでお絵かき]練習成果
(未)§[その他]主に書き物と描きモノ


◆ここは、私の、ごく個人的な「闘病記」です。
縁あって私のブログサイトへ辿りついてくださった方々の、お知り合い、お身内、またはご本人、どなたであっても、 一人でも多くの方にお読みいただいて、皆様のバーチャル世界ではなく「現実世界」で、ぜひお役に立てていただきたく、公開することにしました。
同じ病気ではなくとも、様々な場面での「検診」の必要性を、特に女性に、とりわけ、子育てで忙しい方にこそ知っていただきたく思います。
この手記をお読みになることで、そのことに思い至ってくださるのであれば、なによりです。
◆インターネットの公開性を考慮し、全て仮名で記述致しました。また10年以上前の出来事ですので、情報的には古い部分が多々あります。ご承知おきください。


□     §[   闘 病 記   ]     □
        (10年前、やはり私達は「闘った」のでしょう)



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■    ベイビーピンクのブラインド    ■





       1.闘い終えて春

Part2▼


「なんだ、ここのブラインドは。これじゃゆっくり寝ていられないよね。」
と、主治医の大塚医師は壊れかけたグレーのブラインドを見上げてからニコニコと私に同調を求めて、 戸惑っている私を後目に、今度は今日の回診係の高野助産婦にむかって、
「これはどこに言ったらいいんだ?ん?メンテさんか。すぐに言ってなおしてもらうようにしてあげて ね。なおらないようだったら、取り替えだ。うん、そうだ、いっそ新品だね。パァーッと明るい色でピ ンクとか。そうだ、ピンクがいいよピンクが。僕が言ってたって話してさ、今日中に付け替えてもらう ようにね。今日中だよ。」
終始笑顔のまま早口で言い終えると、もう一度私の方に向かって、病理検査の結果が記入された水色の 用紙をヒラヒラさせながら、
「今回の手術は、この洗浄水以外の検体はないわけだから、もう大丈夫ですよ。あと三週間ちょっとの 辛抱で家に帰れますよ。よかった、よかった。じゃあ、お大事に!」
と言い置いて、風のように私の病室を出て行った。
助産婦の高野さんは、大塚医師から手渡された、私の二年七カ月が記された分厚いカルテを胸に抱え持 って、その明るいくりくりした眼をいっそう見開いて、『先生、どうしちゃったの?』とでもいうよう に首をかしげて私に向かい、ニッコリと笑って見せた。

    大塚医師は、向かい合う度に”医師としての使命感”という言葉を思い起こさせてくれ るような、誠実さと明るさを嫌みなく兼ね備えた医師である。そのうえ患者への説明も非常に丁寧だか ら、決して、旧タイプの、無口で無愛想な医師という訳ではない。が、それにしても、日頃の『まじめ な中堅医師』というイメージらしからぬそのはしゃぎ様に、私も、清子さん同様ポカンとしてしまって いた。
「ピンクですって!」
と言った私の言葉に、高野さんは嬉しそうにうなずきながら、次の病室へ入った大塚医師のあとをあわ てて追った。術後五日目の回診のこの時、病理検査の結果はあと二~三日先のことと思っていた私は、 まだ大塚医師の言葉を実感として呑み込めずに、ボーッとしていた。
    三年前の夏、正確には二年七カ月前、卵巣に見つかった癌との短くも長い戦いに、(ひ とまず私たちは勝ったのだ。)
と、やっと感慨がこみあげてきたのは、隣のベットの山下さんに
「おめでとう!ヤッタわね。」
と声をかけられてからだった。それは、想像していたよりはるかにゆっくりと沸き上がる満足感で、私 はこわごわとその嬉しさの中に、気持ちを浸して行った。
「うん、ありがとう。」
と、山下さんに答えてはみたが、もっと熱い感激を想像していたので、意外な平穏に私自身がとまどっ ていた。取り敢えず何をしたら良いのかさえ分からず、ベッドに座ったまま、四角に初春の空を切りと っている窓に視線を移した。こわれかけたグレーのブラインドの羽の間で、春めいてきた午前の乱れた 光が、眩しげに躍っている。
(そうよね、産婦人科のブラインドはもっと綺麗な色がいい。ピンクかぁ。ピンクはピンクでも、優し いベィビーピンクが似合いそう。)
と、脈絡もなく考えて、改めて、大塚医師の弾むような喜びが、私の中にも拡がって来た。

    今回の入院は、三年前の卵巣癌について、転移・再発等がないか、いわば治療効果を問 うための開腹手術が目的の入院であった。医療スタッフの言う「サード・ルック」は、そのまま私にと っての三度目の開腹手術を意味していた。この入院前は、色々な意味で気が重かった。術前検査を外来 での通院で済ませて、手術前日の入院。麻酔科での受診を終えてこの部屋へ通されて、準備してきた着 替えやコップなどを整理しながら、
(ああ、この部屋のブラインドはバラバラだ)
と、ぼんやり考えたのを思いだす。パジャマに着替える時、あきらめながらも輪になったコードを交互 に引いてみたりもしたっけ。予想にたがわず、そのグレーの羽は閉じてくれなかったが、不思議と腹立 たしくはなかった。
ほんの数カ月前、同じ細胞で闘った中野さんのサードルックの術後を見舞ったときは、確か壊れてはい なかったなと、ただそれだけを思った。彼女のサードルック(二年目三回目の開腹手術)は、『見た目 はシロで病理結果クロ』という、本人にとっても周りにとっても辛いものだった。術後そのまま化学療 法を続け、元気に退院はしたものの、秋口から気になる咳をしていた。私は、少しばかりの肺癌の知識 を、彼女の前では口に出来ないでいた。

    ブラインドは、病院という場所柄か、もっとも単純な構造の実利的な造りで、 無理な方向の力がかかることはあまり考慮されていないらしい。
(力任せの不幸にあって、こんな見事に、羽が折れ曲がってしまったのだろう。)
と、今回の手術の前の日、重く沈む気持ちを持て余しながら、折れたブラインドの羽に投げやりな思い を馳せて、一度目の手術の前の大塚医師の言葉を思い出したりしていた。

    三年前の夏のあの日、手術に同意しながらも、仕事とのかねあいにこだわって日延べしようとする私 に向かい、困ったような優しい面もちで、だが断固とした態度で大塚医師は、
「いたずらに仕事に振り回されることのないように、まず病気をはっきりさせて、治療の必要があれば 、僕たちと一緒に、ひとつひとつ、しかるべき処置をしてゆきましょうね。」
とゆっくりとした口調ながらも、私の病状が猶予のない事を告げてくれたものだ。『僕たちと一緒に』 という言葉は、文章にしたら、まさに呉竹体の傍点ものであった。そして、私とN病院産婦人科医療ス タッフとの、それからの二年七カ月の関係を見事に言い当てた言葉ともなっていた。

    大塚医師の今日の喜びが「ピンクのブラインド」なら、二十名の助産婦さんたちは、そ のブラインドの一枚一枚の羽だろうか。さらに、入院中の私と二人の子供たちの生活を、有形無形に支 えてくれたたくさんの女友達もまた、一人一人がピンクの羽を持っていたのかも知れない。
    そう思うと、ともすれば投げやりになりがちだったここ数カ月の荒れた心を、そして、千々に初春の 陽光が乱れる病室の窓際を、ベィビーピンクの透き通った光が、柔らかくつつんで行くのを感じた。
(誰に、一番に知らせようか。)
決められないままに私は、回診の終わった廊下へ出て、まっすぐにナース・ステーションへ向かってい た。
Part1▲






        2.三年前の暑い夏

Part3▼


    三年前、コンピューターソフトの会社を設立したばかりの私は、只々いそがしかった。
二才と五才の二人の子供を連れての離婚から丸二年目、上の女の子の優(ユウ)が小学校の二年生とな り、フリーエンジニアとしての仕事も少しずつ波に乗ってきて人に手伝ってもらうくらいのボリュウム には、なっていた。
私を会社経営者へと押し上げるムードに、
(ここはひとつ乗ってやろうじゃないか)
と、気持ちがピタリとはまった。
相棒として事務回りを仕切ってくれる、主婦仲間の加賀さんの存在が、私を勇気づけてもくれた。
    技術者から経営者への転換は慣れないことだらけで、とにもかくにも会社が産声を上げたときには私 は疲れきっていた。
そして札幌は、夏が始まっていた。
その夏が私にとってあんなに暑い夏になるとは、まだ想像さえしていなかった。

    時々目眩がして、度々、息苦しくなった。暑い夏になりそうだと感じ、
(少し疲れすぎたかな、とにかく、続けて八時間、寝てみたい)
と思いながらも、殆ど毎日が薄明かりが射してからの就寝だった。
目眩も息苦しさも、「疲れすぎ」の言葉で片がついてしまう。
    今にして思えば日本中が浮かれていたバブル経済の頂点の頃だったが、私の身体の健康リズムもまた 、頂点に達していたようだ。
そして急速に下降し始めたという点でも面白いように符合した。

    夕方、下の息子を保育園から連れ帰る途中、運転をしながら気が遠くなってゆくのを感じて、あわて て、車を路肩に停めた。
子供を乗せて運転している時にという事実が、遠のく意識をかろうじて引き戻したという、きわどいも のであった。
外の暑さと、身の内の寒気を、汗が隔てていた。
大きく深呼吸をして、やっと少しの酸素が入り、すぼまりかけていた視界が広がる。
それまでの大抵の病気は、胃痛にせよ自律神経失調症にせよ、半ば職業病的なところがあって、見当を 付ける事ができたし、又そのかわし方も身に着いている筈だった。
だが今回の症状に敢えて一番近いものを探すとすれば、妊娠初期の症状しか思いつかない。
そして、幸か不幸か、その頃の私にそんな覚えはなかった。

    車を停めた場所は、予見していたかのように保育園仲間の小野さんの家へ通じる小路の入り口だった 。
車の後部座席から四才の息子が身を乗り出して、心配そうにのぞき込む。
下の子の圭(ケイ)は、男女の差なのか、姉の優(ユウ)に比べて何かとのんびりしている。
だが、日頃から、私の状態には何故か不思議なほど敏感な子である。
その真剣な、今にも涙が玉になってこぼれ落ちそうな澄けた瞳に、母親である我が身を実感させられた 。
「ケイ、良く聴いてね、お母さんね、つらくて運転できないの。しげちゃんの・・小野さんの家、覚え ているよね?おばちゃんを呼んできてくれる?」
「うん、わかった。」
    二人目の子とはいえ、四才という年令がどの程度の判断力を持っているのか、見当がつかなかったし 、『おばちゃんに知らせて』と、どちらにしても、それだけを託すのが精一杯だった。
カーエアコンを全開にしてシートを倒し、顔に、胸に、風を当てて、目を閉じて、深く深く息を吸い込 み、次に息を吐く。全部を吐き出さぬ内に、慌てるようにもう一度深く息を吸い込む。
人工の風が撫で切ったかのように汗が瞬時に引いてゆくのを感じながら、昼間、いつになく強い語調で 言われた加賀さんの言葉を思い出していた。

    仕事の相棒である加賀さんには、経理と私の秘書役と、精神面でのコンサルタントから果ては失せも の探しまでしてもらい、私は加賀さんに頼りきっていたので、その日も私は、仕事のスタートが遅れた 件で、元請けの不実について加賀さん相手に愚痴っていた。
しかし加賀さんには
「ちょうどいいじゃない。」
と、ひどく冷静な目でみつめ返された。
「こんなことでもなきゃ病院へ行かないんだから、どうあっても明日は絶対に病院へ行きなさいよ。自 分で行かないんならひきずってでも連れて行くわ。」
と、あまりにも強い調子で言われたので、私は戸惑って、曖昧に笑ってやり過ごしてしまっていたのだ 。

    そんな昼間のやりとりを思い出しながら、倒した運転席で、両肺に心地よく入ってくる空気にやっと ひと心地をつけて、
(明日、病院へ行こう)
と心に決めた。
    病院へ行こうと決めて目を開けると、元看護婦、保育園仲間の小野さんのいつも優しさをたたえてい る目が、心配そうに、でもやはり優しげに、ケイと一緒に車の中をのぞき込んでいた。
Part2▲

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       3.N病院との出逢い

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    札幌中央第××××号
    障害名[両股亜脱性関節症による両股関節機能の著しい障害]
この長ったらしい名の障害が、私の身体障害者手帳の交付された所以である。

    私は、いわゆる”障害者”である。
この障害は痛みを伴い、またその痛みはどんどん進行してゆくが、 手術をするなどして脚に欠損が生じない限り障害等級が上がりはしない。
痛みに、客観的な等級はつけられないということらしい。
十数年の間に痛みはひどくなる一方だが、手帳に書かれた二種四級の文字は、更新されぬままである。
その何年間もの私の股関節のレントゲン写真は、N病院整形外科の内藤医師の手元に保存されている。
私のこれまでの歩みを方向付けたのは、整形外科のこの内藤医師だと云える。

    十数年前、絶え間ない股関節の痛みに堪えかねてある整形外科を訪れたところ、手術を勧められた。
手術によって痛みは軽減するという。
そうかと簡単に納得したが、念のために、もう少し大きな病院へも行ってみた。
やはり手術をするという。
だがひどく難しい顔で、良くなるとは言い切れないともいう。
たまたま知り合いの看護婦さんが、股関節は整形外科の中でもたいへん特殊な部分だと教えてくれた。
もともと整形外科自体が、分野別に専門が分かれていることの著しい科だという。
「うちの内藤先生は股関節専門よ。いい先生よ。ウデも、人も。ぜひ診てもらいなさいよ。」
という言葉に促されて、内藤医師のもとを訪れた。

    それからの、たびたびの通院のなかで、股関節の手術が、何故どんな風に難しいのかを、 内藤医師は時間と言葉を積み重ねながら、私に少しずつ説明した。
骨が粗になってゆく過程、痛みが今後どのように進行してゆくか、
進行を少しでも遅らせるには何に心がけて生活をしてゆくべきか、
痛みの他に同病者が悩むのはどんなことか、それにどう対処するか等、
まさに『病のみならず、全人を診る』といった具合の、それも、実生活に即した説明だった。
相談をした訳でもないのに、
『いずれ手術は必要になるが、更正医療の対象になるから、入院費の心配をしなくてもよい』 という事や、『身障者手帳が交付される』という事など、ケースワーカーではなく内藤医師から直接、早いうちに聞かされた。
医師は費用に無関心だと信じきっていた私の常識は、内藤医師によって覆されたわけだ。
内藤医師は、文字どおり、私に身障者として生きるための杖を添えて下さった方と云える。
   もっとも、最初の頃は、覚悟はついたつもりでも、
(人に頼りながら、遠慮がちに、スミマセンと口篭もって生きてゆくの?)
と落ち込み、また、
(一人で、誰にも迷惑をかけずに生きてみせる)
と肩をいからせ、日々強くなる痛みに気持ちが追いついて行かない苛立ちを覚えたりもした。

    十数年前の忘れ得ないあの日、診察室で私は泣いた。
内藤医師はメモ用紙に意味のない放物線をいくつもいくつもボールペンで重ねながら、
「脚をかかえこんじゃぁ歩けなくなるんだよ。例えば、役者ならどうだ? クレオパトラは鼻が高いと決まっているから、鼻の低い役者はクレオパトラの役は諦めるかも知れない・・でも役者を辞めはしないよな。 他にいくらでも役はあるわけだから。病気も人生もそんなふうに考えてみないかな? 脚が悪いのは、まあ、貴女のひとつの属性だって思って。」
といい終えてから、パシッと明るい音を立ててボールペンを置いた。

    その日を境に、私は自分の脚の障害を真正面から見る事が出来るようになっていた。
内藤医師が、当初の病院からN病院へ移籍なさった時には、股関節の特殊性が認められて、 患者の希望によりカルテの移動もまた認められた。
当然、私のカルテとレントゲン写真は、内藤医師の移籍と共にN病院へ移していただいた。
だから、N病院は、私にとって、「内藤先生のいる病院」というだけで、とりたてて訳のある病院ではない。
その脚の障害に関しても、半年毎に検診を受けるはずだったのに、忙しさに紛れて随分長い間通院を怠っていた。

   三年前の夏、どのみち整形外科を受診する時期に来ていたので、その『ほんのついで』程度の思いつきで、 私はその夏の不調をN病院で診てもらうことに決めた。
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       4.産婦人科への迷い



   N病院は、総合病院である。
その夏の具合の悪さがどこからくるものか見当をつけかねて、さんざん迷った挙げ句に、 私は内科にかかることにした。
いや、正直にいおう。
具合が悪くなりはじめてから数日来、家庭医学書などを読んでいた私は、 もしかしたらと、もしかしたら産婦人科かもしれないと、胸の奥底で考えていたのだ。
だが、二度の流産・二度の出産を経験したこの私でさえ慣れる事の出来ない、産婦人科のあの内診台が、 産婦人科の受診をためらわせた。
その時の思い切りの悪さへの反省が、女の子の母親である私にこの手記を書かせもしたが、 それにしても、(産婦人科の門をくぐるのは難しい)と、思わずため息が出る。

   しかし内科では、思ったとおり首をかしげられた。
曰く、「自律神経でしょうかね、自律神経の調整剤を出しましょうか?」
曰く、「まあ、まれですが、貴方の年令で早めの更年期を迎える人もいますから」 というもので、それらの診立てに、私はこれという反論の根拠も持たずに、
(どこか違う。)と、思った。

   全てが分かってから翻ってみて、つくづく医師とのめぐり合わせの幸運さに感謝したものだが、 私は循環系に『LGL症候群』症状を呈する、器質的なごく軽い欠陥をもっている。
そしてこれを見つけてくれたのは、下の子を身ごもった時にお世話になった大学病院の産婦人科の若い女医さん、リカ子先生であった。
今回、『沈黙の臓器と呼ばれる卵巣』の病気が、自覚症状を伴ったのは、心臓の、欠陥とも呼べないような小さな欠陥が私にあったからで、異常を本人が確定できたには、リカ子先生の存在が大きい。

   何度かの流産の時も含めて、私は妊娠すると呼吸困難になり、特に下の子の時は、息が止まってしまうかと不安になるほどで、切迫流産で入院したおりにも何度か担当医師に訴えた。
だが、コンピューターソフトを生業にする私と、心身症を研究課題にする担当医師(今でいう"心療内科"のはしり?)の組み合わせは、はまりすぎていてかえってまずかったようである。
随所に、『自律神経失調』とか『心身症』とかの言葉をはさんだ曖昧な診断で、双方がほぼ納得しかけてしまったのだ。

   ただ一人、当時、臨床現場に出てまもない若い医師の、リカ子先生だけが、
「妊婦さんで、たまに同じ訴えをする人がいて、皆あなたと同じように脂肪の薄い人なんですよ。 おなかが大きくなってもクッションになる脂肪がないから、静脈が圧迫されて、 若干息苦しくなるんじゃないかなと思うんだけど、ただ、もう少し症状が軽いように感じるし・・。」
と、成る程と納得のゆく説明をしてくれた。
更に、何よりも嬉しかったのは、『神経質になりすぎだ』と言わずに、
「循環器に何か隠れていたら困るから、調べましょうね。」
とおっしゃって、深夜わざわざ見回りに来て楽な姿勢をとらせてくれたり、 回診のおりに心電図をとってみたり、訴えがひどいときには酸素を吸入させたりと、 具体的な対応と処置をして下さったことである。

   結果、循環器の医師から、
「あなたの場合、左心室が小さ目なので、そのような症状になるんですよね。 かといって、通常生活に支障があるほど病的なものでもなく、妊娠が終わったら殆ど意識しないで済むはずですよ。ただ、何か変わった事があったときには、『LGL症候群』という言葉を思い出して下さい。」
と説明されて、精神的にとても楽になり、辛抱強く診て下さったリカ子先生に、たいへん感謝したものだ。
子どもの頃に長い体育館での朝礼で倒れたりしたのも、こんな軽い器質欠陥が原因だったかもしれない。

   卵巣癌が見つかった時の私には、不正出血も生理異常もなかったのだから、この、 『LGL症候群』なるものを知らなければ、あるいは、自分でも「早めの更年期障害」と思って、民間療法に頼ったかも知れない。
多分その更年期障害にしても同じ事が云えると思うが、不定愁訴=様々な場所に出る様々な症状を訴える、原因を特定しにくいあいまいな具合の悪さ=の患者は一様に、
(自分の訴えは認めてもらえていない。『仕方のないことをくどくどと訴えるばかりで、ナーバスに過ぎる』と思われている。)
という不安を、常に拭いきれずにいるのではないだろうか。
その不安がなくなって、理解されていう安心感のなかで自分のおかれた状況を患者自身が真摯に認めたとき、 初めて患者自らが、病気との闘いの主体たり得る。
真の治療は、そこから始まる。

   最近やっと、生理痛・つわり・更年期障害・閉経後の骨粗しょう症などに対して、
「楽にやり過ごすには」という消極的な助言レベルの対症療法から、原因となる疾患の根本治療へと積極的な方向に、産婦人科医療が向かいつつあるという。
ちょうどその転換期が私の闘病時期と重なり、北海道では最先端と評判の高いN病院産婦人科の臨床現場をつぶさに見せていただけたのは、私のもっとも幸運とするところだ。

   さて、内科の診断で、意地の悪い見方をすればヒステリー症状と同義に解釈できる「過呼吸症候群」という言葉が出てきたとき、私はたいそうな切口上を述べて、診察室をあとにした。
とにかく、全体に横柄で嫌な話し方をする医者ではあった。
(だから、病院なんて来たくなかったんだ。もう医者には頼らない、漢方でも何でも使って自分で治してみせる。)
と、今にして思えば、たいへん思い上がったことを考えていた。
だが、ここでも私は、一人の女性、看護婦さんに命を拾ってもらった。
外来の若い看護婦さんは、私とその時の医師のやりとりを、きっとカーテンの影で、ハラハラしながら聞いていたのだろう。
わざわざ追いかけてきて、私にそっと、
「お医者様と患者さんでも、相性ってあるのよ。あきらめないで、循環器専門の先生の外来の日に、もう一度だけいらっしゃい。」
と、囁いた。
その好意と、同僚である香川さんの親身な心配を思い、もう一度だけと、再び内科を訪れた。

   内科部長の福田医師は私を前にして、かなりの時間をかけてカルテを読んだ。
同じ医師仲間でも他人の書いたカルテに丁寧に目を通すのが如何に困難か、友達から聞かされていた私は、 福田医師のその行為に接しただけでも、再来して良かったと思えた。
「初診の時、少しおなかが張るような気がする、と書いてありますね。ちょっとそこへ横になって下さい。」
今回の通院で初めての触診である。
スカートのウエストが、ここ二カ月ほどの間に急速に合わなくなっていたが、三十八才という年令が中年太りを推察させたからか、 あるいは症状からか、それまで触診はされていなかった。
おなかを触ってすぐに、福田医師は、
「あっ」
と、小さく声をあげ、
「これは、すぐに、日を開けずに、ここの産婦人科へ行って下さい。明日は、午前中しか産婦人科外来は、やっていませんからね。 明日の午前中に必ず受診してくださいね。必ず、ここの産婦人科ですよ!」
と、そう言った。
そう言われて、(ああ、参ったなあ)と思う反面、
(やはり、婦人科の方で何かが起こっていたんだ)と妙に納得したのだから、なんとも厄介な患者ではあった。

   月が明けて八月初旬、この時でもまだ私は、真剣に”病院を選ぶ”という姿勢には至っていなかった。
障害を抱えていたり、流産を繰り返したりと、それまでお医者様には何くれとなくお世話になっていて、有り難いと思いながらも、
(いいお医者さんにあたってラッキー)という程度の認識だった。
真面目な医療関係者が、良質の医療を追求する姿勢に比べると、私などは、本当にお粗末な患者だといえよう。
もっとも、私の病院に対するこの認識の低さが、
(整形外科のついでに見てもらえるから)
と、私にN病院を選ばせ、結果私は最先端の治療を受けられたのだから、何が幸いするか分からない。

   北日本産婦人科学会理事の森田医師を部長とする、N病院産婦人科スタッフと私との出逢いは、このような偶然の産物であった。

   産婦人科の大塚医師は、内診をしながら、
「卵巣嚢腫ですね。これは、すぐに手術になります。」
と、即座に言った。
経験のある福田医師とはいえ、専門外の内科の先生が外から触ってわかる程のものだったことから、 私はそれなりの覚悟をしていたつもりだった。
だがそれも、よく耳にする「子宮筋腫」だとばかり思っていたので、「ランソウノウシュ」という聞き慣れない病名は、一瞬、私を不安にさせた。
とはいうものの、説明を聞いた診察室の様子は不思議と安心感の持てるものだった。

   四人の先生達は、個別についたてで仕切られた診察室を受け持っていて、私は内診をした大塚医師の場所で説明を聞かされたのだが、ここの診察室が他の病院と少し趣が違っていると気付いたのは、 かなり後のことである。
私がそれまで知っている病院の診察風景は、『先生が机に向かい、患者はその横に置かれた不安定な丸椅子に座って、 先生の診断を拝聴する』というものだが、ここの産婦人科では、机を真ん中にはさんで医師と患者が正面から向かい合う。
内科のように、椅子に座って聴診器などを当てる必要があるところでは無理な注文だろうが、 こんなちょっとしたレイアウトの工夫が患者を安心させると、初めて知った。
ついたてでなく、もう一歩踏み込んで個室だと、プライバシーの確保という意味ではもっと良いのだろうが、 それはともかく、『治療の必要があれば、僕たちと一緒に』の言葉が私の心に深く滲み入ったのも、 そんな風に机を真中にはさんで、対等に向かい合った位置関係で言われたからかも知れない。
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5.へつづく<2005/07/18 UP>



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